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日大三をもっと知る

先輩こんにちは!

諸河もろかわ ひさしさん

1966年卒業

vol.04

フリーカメラマン(鉄道写真家)

  • 1947年
    東京生まれ
  • 1963年
    日本大学第三高等学校 入学
  • 1966年
    日本大学経済学部 入学
  • 1970年
    東京写真専門学院
    (現・東京ビジュアルアーツ)入学
  • 1972年
    出版社(株式会社交友社)就職
  • 1979年
    出版社を退社してフリーカメラマンに
  • 現在
    鉄道写真の第一人者として活躍中

  • 聞き手
    理事長 櫻井 勇
  • 聞き手
    中学校長 石島 広之
  • 聞き手
    高校校長 高瀬 英久
  • 聞き手
    広報部 主任 佐々木 祐輔

本日は、貴重なお話をいただきありがとうございました。新幹線の試乗のときの写真など、貴重な記録の数々に生徒たちもびっくりしていたようです。

諸河
日大三高を卒業してから50年。私がこれまで貫いてきたものが、後輩の皆さんの人生において一つの参考になればと思い、お話させていただきました。
石島
50年、60年と続けてこられたことに大変感銘を受けました。私は先日の始業式で、生徒たちに「継続は力なり」という話をしました。そして「本物は続く、続けると本物になる」という言葉があることを伝えましたが、これはまさに、 諸河さんそのものだなと思いました。「やり続ける」ということに、勇気をもらった生徒も多かったと思います。

学生時代に夢中で取りんだことが私の原点

日大三高での思い出をお聞かせください。

諸河
高校時代は都電(路面電車)で通学しており、その当時から路面電車に興味を持ち始めました。当時の大卒の給料の2か月分もする一眼レフカメラを親に買ってもらい、休日になると通学定期券を利用して都電の写真をたくさん撮影し、また松本、金沢、神戸など、色々な都市の路面電車も撮影に行きました。高校2年の時、10月1日の東海道新幹線開通に先駆け、試運転列車の試乗券が当たりました。乗車日が平日だったため授業があり、当時の担任だった矢澤先生(元校長)に相談に行きました。すると「いい社会見学になるから行ってきなさい。でも三高を代表して行くんだから、試乗して色々なものを見て、みんなに報告する義務があるからね。」と快く承諾してくださいました。矢澤先生には、本当に感謝しています。もちろん、この時以外は学校をサボることはありませんでした(笑)。毎日休まず学校に行き勉強を続けることが一番大切です。若い時に一般常識や社会常識を頭にたくさん入れておいた方がいいのです。この時期にしかできないですから。学ぶことと自分の好きなことを両立できるのが学生時代であり、それが人生設計の原点になります。私も、学生時代にたくさんの写真を撮ったことを後悔していませんし、その時に撮った写真が私の写真の原点だと感じています。
櫻井
中学校・高校は、社会常識や教養をきちんと教え、本人が将来進みたい道に向かう時に必要となるものを提供していくことが大切だと、改めて感じました。教員の皆さんにも認識してもらいたいですね。

諸河さんの地元、中央区・新富町の都電通り。
都電と行き交うアメ車は1957年型「シボレーベルエア」
(1962年7月撮影)

新幹線試乗の当日、どきどきしながら乗車を待った。
東京駅(1964年9月撮影)

日大三高卒業後、カメラマンになるまでの経緯についてお聞かせください。

出版社の依頼で撮った国鉄特急列車の顔合わせ。
向日可運転所(1970年8月撮影)

諸河
私は親の勧めもあり日大経済学部に進学しました。経済学部の選抜試験の際に、面接官から「君は三高ですか。いい先輩がいっぱいいますよ。これから経済学部で頑張ってください、期待していますよ。」と声をかけられ、三高のパワーのすごさを実感しました。大学では鉄道研究会に入り、仲間と一緒に全国をまわり蒸気機関車の写真を撮影しました。大学4年から雑誌社に写真を寄稿するようになり、プロを意識して写真を撮るようになりました。しかし、学園闘争が始まり、大学3年の5月から4年の8月まで大学が閉鎖になり、授業も受けられず、就職活動を始めた頃もまだ卒業見込みが出ていませんでした。進路を迫られた私は、自分が小学生時代から撮ってきた写真をこれからの自分の糧にしようと考え、専門学校の商業写真科に進学して2年間写真の基礎を学びました。そして自分の好きなものは鉄道であると改めて考え、雑誌「鉄道ファン」の編集部員として出版社に入社しました。

出版社でカメラマンとして働き始めて、どのように感じましたか?

諸河
一般常識など、ある程度ものを知らないと、自分で色々なことを解釈したり記事を書いたりすることができないと改めて感じました。深く知らないと本質は見えませんし、読者も納得しません。自分で得た知識を記事の中で表現する加減や、鉄道や写真の知識、ロケでの振る舞いや交渉術は、先輩に怒られながら、ゼロから身につけていきました。

「継続」は、自分の経験となり、力となる。

その後フリーのカメラマンとして活躍されていますが、フリーのカメラマンになって大変なことはありましたか?

諸河
出版社に入社後7年程経った時に、鉄道現場の撮影から編集者に転向することを命じられました。自分のカメラの腕が世の中でどこまで通用するのかを試してみたくて、32歳で独立しました。独立すると、ただ好きなときに写真を撮るばかりではありません。スタッフカメラマンは、被写体と絵柄を上司から指示されたものを撮ればいい。でもフリーカメラマンは、被写体や絵柄を自分で選別して自分のセンスで撮影する、とても大変な世界です。そして撮った自分の写真をどのように売り込むか、様々なコネクションを通じてどれだけの方に買っていただくか、それが一つの勝負なんです。いくら腕がよくても売り込みが下手だといつまでたっても芽が出ません。また、独立すると自分が個人事業主となり、税務申告等を自分で行わなければなりません。経済学部で学んだ会計学の知識が役立ちました。

小学生時代に親しんだ初級カメラ「マミヤ・マミー」

髙瀨
一つのことを続けていくということは、好きという気持ちや情熱だけでできるものではないということがよく分かりました。一般的な社会常識をきちんと身につけて、広い視野で物事に向かっていくことの大切さを生徒たちが感じ取ってくれたらよいですね。

最後に、在校生にメッセージをお願いします。

諸河
私には2つのポリシーがあります。一つ目は、「オンリーワン」。日本では、「one of them」、要するに皆と一緒でいいや、という風潮が強いです。もちろん時にはその考え方も必要ですが、私はオンリーワンのポリシーでこれまでの写真人生を歩んできました。写真を撮る時も、誰かと一緒ではなく、自分一人でオンリーワンの写真を撮るという気概を持っていました。二つ目は、「継続は力なり」。これが私のモットーです。継続したこと、長く続けたことは、経験値として積み上がり、必ず結果としてついてきます。自分の体が全て覚えているからです。これから先の皆さんの生き方は千差万別ですが、ぜひ物事を継続し、オンリーワンで行くんだという意識を持ってこれからの長い人生を送ってください。

【海外取材の作品】旧東ドイツ国鉄の01型蒸気機関車
(1977年8月撮影)

【海外取材の作品】旧ザクセンの首都ドレスデンの路面電車
(1977年8月撮影)

どうもありがとうございました。