日大三をもっと知る
先輩こんにちは!
小島 克典さん
1992年卒業
スポーツカルチャー研究所 所長
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- 1992年
- 日本大学第三高等学校 卒業
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- 1997年
- 日本大学藝術学部文芸学科 卒業
横浜ベイスターズ 入社
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- 2002年
- サンフランシスコ・ジャイアンツ 入社
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- 2003年
- ニューヨーク・メッツ 入社
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- 2004年
- ライブドアのGMに就任
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- 2005年
- 立命館大学経営学部客員教授
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- 2008年
- 尚美学園大学総合政策学部准教授
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- 2011年
- スポーツカルチャー研究所所長に就任
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- 聞き手
- 理事長 櫻井 勇
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- 聞き手
- 校長 石島 広之
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- 司会
- 広報部 主任 佐々木 祐輔
2時間のご講演お疲れさまでした。
高校3年間の一つひとつのことが今につながっているというお話が、非常に印象深かったです。
- 小島
- 最初に講演のお話をいただいたときは、正直信じられなかったですし、まさか母校に呼んでいただけるとは夢にも思っていなかったので、すごく嬉しかったです。高校時代の写真を整理するところから講演の準備が始まったのですが、母校が僕にとってこんなに大事な場所だと認識できましたし、生涯忘れることのない瞬間の一つだったと思います。
- 櫻井
- 卒業生の方にお話をいただくと、生徒も興味を持って聞きますし、様々な分野で活躍されている方に憧れを抱き良い指針となります。
仲間が頑張っているから自分頑張れる
これまで国内のみならず海外でご活躍されていますが、高校時代はどのような学生でしたか?
- 小島
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僕が入学したとき、三高が初めて3学年そろって共学になりました。1年のときは男女共学クラス、2、3年は男子クラスで、野球中心の学生生活でした。入学したての頃は中学と高校とのギャップをすごく感じました。中学まではそこそこ勉強もできましたが、三高に入学してからは学校の勉強の面でも、普段の生活でも全然目立たなかったと思います。でも1年のときに僕の人生を変えたといっても過言ではない出会いがありました。隣に座っていた女の子が、アメリカ生まれのアメリカ育ちで英語がとても堪能で、初めてその子の英語の発音を聞いたときに、かっこいいなと衝撃を受け、憧れの気持ちがいつしか恋心に変わりました。その子とハドソン先生が普通に英語で話すのを見て、僕は必死で英語を勉強しました。彼女が日大の芸術学部に行くと聞き、僕も日芸を目指しましたが、そこのモチベーションはぶれることはなかったです(笑)。
2、3年の男子クラスは、担任の先生(太良木先生)とクラスメイトにすごく恵まれて本当に楽しかったですね。先日男子クラスの卒業から20年の節目にクラス会があったのですが、結構高い参加率で、みんな職業は全然違いますが、あいつが頑張っているから僕も頑張ろうという気持ちになりました。高校3年間は、大切な仲間と出会えたすごく貴重な学び舎でしたね。
- 石島
- 人間目標が見つかるとそこに向かって突き進む力は大きいですね。本校ではなるべく自分の将来の夢を見つけて、その目標達成のための大学進学をしましょうと生徒に教えています。そのきっかけが恋心であれ、そこに向かって夢を実現するために1ヶ月後、1年後に何をすればいいのか、いま何をすればいいのかということを、実例を持って伝えていただいたことで、生徒の心にも深く刻み込まれたことと思います。
- 小島
- 高校生が3年間一心不乱に甲子園出場を目標に野球をやるのと同じように、僕だったら「彼女と仲良くなりたい」というぶれない目標設定が大事なんですよね。叶う夢と叶わない夢があると思いますが、目標や夢は何回変えてもいいと思っています。絶対叶わない夢を描くのなら、叶いそうな夢を描いたほうがより実現できますから。
「人生のレギュラー」を目指して
野球部で印象に残っている思い出はありますか?
- 小島
- いま三高の野球部は強く甲子園にも出場していますが、当時は、準決勝で敗れる時代でした。僕の高校野球生活は、甲子園出場の夢が叶わない3年間でしたし、レギュラーにもなれませんでした。でも、恩師である先生(青木久雄先生)からかけてもらった「人生のレギュラーを目指して頑張れ」という言葉が、いまでも強く印象に残っています。
その後日大の芸術学部に進まれましたが、大学での生活はいかがでしたか?
- 小島
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在学中に、三高野球部の学生コーチをしていました。学校の合宿所で寝泊まりして、朝は大学の講義に行って、午後から母校で野球のコーチをするという生活で、大学2年までは、高校時代と同じような生活でしたね。そのような生活を続けるうちに、隣の芝生が青く見えたのでしょうか、アメリカの野球ってどんな感じなんだろうと興味を持ち学校に無理を言って途中でコーチをやめさせてもらいました。途中でやめてアメリカへ渡ることをよく思わない人もいてきついことを言われたりもしましたが、見返してやろうという気持ちで渡米を決意しました。
アメリカでは、地元のクラブチームに所属して野球をしていました。言葉の壁もなく、ベースボールと野球は一緒だなと感じて世界が一つになった気持ちがしたのをいまでも覚えています。そこでの経験から、野球と言葉を結びつけて仕事ができないか、通訳としてプロ野球に関わっていきたいと考えるようになりました。通訳としての夢を持ってからは、さらに英語の勉強に注力しました。
大学在学中に、アトランタオリンピック野球チームの通訳に採用されましたが、どのような経緯で五輪代表の通訳になったのですか?
- 小島
- アメリカのオリンピック組織委員会に直接電話で立候補しました。今はネットが普及して調べ物には便利な世の中ですが、当時はそんな便利なものがなかったので、知りたい電話番号を有料で教えてくれる電話会社のサービスに電話番号を聞きました。「僕は日本の大学生で英語が喋れます、さらに野球もできます。だから通訳をやらせてください」と言ったら、電話にでた人は「は?」と最初は相手にもしてくれませんでしたが、僕は目標が定まると突っ走るタイプなので、断られてもひたすら電話をかけ続け、面接の機会を得ることができました。実際に面接に合格し、野球チームに帯同することになりました。
- 石島
- 普通で考えればまず国内の組織に連絡すると思いますが、いきなりオリンピック組織委員会にアプローチするのはさすがですね。実際どのような仕事をしたのですか?
- 小島
- チーム内に英語を喋れる人がいなかったので、完全にチームに帯同して現地での移動や生活面でのサポートをしました。今でいうとクラブのマネージャーみたいな感じでしょうか。また通訳だけでなく、JAPANのユニフォームをもらって練習も手伝いました。三高の野球部で補欠だった自分がJAPANのユニフォームに袖を通すことができたのは、がむしゃらに行動していった結果だと思っています。アメリカでの生活は、とても有意義なものになりました。
まさに人生のレギュラーになれた瞬間ですね。
大学卒業後は、横浜ベイスターズに入社、さらに複数のアメリカのプロ野球チーム、プロ野球新規参入を目指すライブドアのGMに就任と、様々な舞台でご活躍されてきましたが、挫折や苦しい思いをしたご経験もあったのでしょうか?
- 小島
- 最初の壁は、横浜ベイスターズ入社1年目です。通訳として独り立ちしたときに、自分の英語力の中途半端さに気づき、「僕は横浜ベイスターズの通訳です」と胸を張って言えるように、球場に出勤する前に英語の勉強を2時間みっちりと行う日々を過ごしました。ライブドアでGMを務めた際は、新規参入が叶わず、社会人になって出会った人たちも一部離れていきましたし、メディアへの露出も増え、様々なことを書かれたり言われたりしました。でもそのときに支えてくれたのは、小中学校時代の仲間や三高野球部時代の仲間でした。特に何か特別な言葉をかけてくれるわけでもなく、彼らが当たり前のようにそばにいてくれることがすごく支えになりましたね。
- 櫻井
- どんな状況下にあっても、自分で考えて自分で行動して切り開いてきたからこそいまの小島さんがあるのだと思います。それを生徒も感じてくれていると思います。
スポーツの価値を高めるために
現在、通訳という立場から教職に転向し、さらにはスポーツカルチャー研究所を立ち上げ、スポーツに関する情報発信をされていますが、今後の夢をお聞かせください。
- 小島
- 僕は、本来スポーツは自発的で能動的で、幅広いものであるとアメリカでの生活の中で感じました。平たく言えば楽しいからするものだと思います。しかし日本では、どうしても縦割りで成り立っていて、他のスポーツでも様々な問題が起きていますが、それがスポーツ界の弊害であると感じています。なので、僕は野球界の出身ですが、野球以外のスポーツの魅力もどんどん発信していきたいですし、健常者のスポーツだけではなく障害者のスポーツもあってしかるべきですし、やるスポーツ以外にもたとえば通訳として携わることもそうですし、見るスポーツ、論じるスポーツなど、もっと幅広い社会との関わりがスポーツを通してできると思うので、そのことをどんどん表現していきたいと思っています。この国にスポーツ好きをもっと増やしたい。スポーツの価値を高めたい。それこそが自分の務めだと思っています。だから大学や専門学校で教壇に立つし、メディアでスポーツの魅力を説いているのです。手段が変わったとしても基本的なスタンスに変わりはありません。 僕はいま、ゆるスポというウェブサイトの編集長をしています。ただ勝敗を伝えることを主眼にしたストレートニュースではなくて、スポーツを多角的にとらえたネタを積極的に報道するメディアです。世間の評価は賛否両論ありますが、ちゃんとリサーチをして失礼にならないようにインタビューすると選手のみなさんも答えてくれます。事前に趣旨をきちんと説明して先に非礼をわびておくこともあります。これによってスポーツの門戸を広げたいと思っています。2020年の東京オリンピックが開催される頃には、ゆるスポがきっかけでスポーツに興味を持つ人を増やしていきたいですね。これがいまの僕の生きがいです。
最後に、三中・三高生に向けてメッセージをお願いします。
- 小島
- 今回久々に母校に帰ってきて、久々に多摩丘陵の丘で四季を感じることができ改めて良い学校だなと思いました。ここで学べることの本当の価値は、在学中は絶対にわからないと思うんです。僕も当時はそうでした。でも、ここにいた3年間は僕の人生においてすごく意味のある時間だったと感じています。みなさんが思う以上に母校って大事で素敵なところなんですよって伝えたいですね。後輩たちは、やっぱりすごくかわいい存在なので、後輩の前でこうやってお話をさせていただく機会をいただけて、本当に嬉しかったです。
- 石島
- 私は公立高校出身だから、母校という意識が希薄な気がします。公立高校の場合は3~5年すると先生が異動になるので、学校を見に行こうとか先生に会いに行こうという気にならないし、ましてや後輩がかわいいという感覚が持てないので、うらやましくもあり、母校愛を持てる生徒たちを教えられることに生きがいを感じます。
- 小島
- 今日は太良木先生の前でお話させていただくということで、有名人著名人の通訳をするよりも緊張しました。太良木先生のオーラは僕にとって日本の有名人以上です(笑)。でも、僕が高2、3のときに怒られながら教わった先生に、いまの高3生が同じように授業を教わっていると思うと、深いつながりを感じます。本当に貴重な1日になりました。ありがとうございました。
- 櫻井
- こちらこそ、貴重なお話をありがとうございました。今後のさらなるご活躍を期待しています。